Masuk――翌朝7時ピピピピ…… 四畳半の寝室にスマホのアラーム音が鳴り響く。「う~ん……」布団の中から沙月が手を伸ばしてアラームを止めた。「もう朝なのね……よく寝たわ……」身体を起こすと、思い切り伸びをし……改めて室内を見渡した。ブルーのカーテンの隙間からは太陽の光が差し込み、室内を明るく照らしている。フローリング床の上にはまだ未開封の段ボール箱が何箱も置かれていた。それらを満足して見つめると、沙月の顔に笑みが浮かぶ。「フフ……何だかまだ夢を見ているみたい。でもここが私の新居……」虐げられ、息が詰まるような窮屈だった白石家でも、居候の身分でも何でもない。この部屋は沙月の、自分だけの城なのだ。「今日中に全部の荷ほどきと、家具の組み立てをしなくちゃ」自分に言い聞かせると、沙月は朝の支度を始める為に布団から出た―― **** 生活に必要な家電は昨日のうちに全て設置済みだった。トーストに牛乳という極めて簡単な食事を済ませると、沙月は早速段ボールの荷ほどきを始めた。 15時半―― 「ふぅ……こんなものかしら?」床の上に無造作に置かれていた段ボールはほとんど片付き、ようやく1人暮らしの女性らしい部屋になってきた。ダイニングには小さなテーブルと椅子を置き、備え付けの棚には最低限の食器と調理器具が並んでいる。けれど寝室の隅には、まだ未開封の大きな箱……ベッドフレームが残されていた。「これを組み立てないと、今夜も床にマットレス直置きで寝ることになるわね……」箱を開封し、説明書を広げて部品を取り出してみる。だがネジや金具の数に目が回り、思わずため息をついてしまった。 「うぅ……思ったより大変そう……それに大きくて重いし、1人で組み立てるのは大変ね……」一瞬、脳裏に真琴の姿が浮かぶも首を振った。「ううん、駄目よ。真琴だって忙しいんだから。これからは自立を目指すって決めたのだから自分で何とかしないと。……もっと使いやすい工具を買えば、ひとりで組み立てられるかも」そこで沙月は工具を買うため、駅の近くにあるホームセンターに行くことにした。マンションの玄関を出た瞬間、沙月は思わず目を見開いた。 こちらに向かってくる霧島と目が合ったのだ。 「霧島さん……!?」 「天野さん……?」 「どうしてここに?」2人の声が同時に重なる。
沙月が機材室に閉じ込められた一件から、早いもので一か月が経過していた。その間、局内では様々な変化が起こっていた。まず澪は報道部からアナウンス部へ異動となった。表向きは「栄転」とされていたが、実際には報道部から遠ざけられた形である。沙月に対する嫌がらせを主導していた女性社員たちは、華やかな現場から外され、資料室や庶務課といった地味な部署へと回された。番組制作の最前線から外され、日々の雑務に追われる彼女たち。かつての勢いを失い、自分たちが馬鹿にしていた相手からこき使われる立場に逆転されてしまっていた。さらに報道部のデスクは降格処分となり、地方支局への異動が決まった。いつも威張り散らしていた彼の姿は、局内から忽然と消えたのだった。これらの人事異動は、天野グループのスポンサーとしての影響力が背景にあった。司が上層部へ圧力をかけた結果、沙月に嫌がらせをしていた局員たちを粛正した形になったのである。沙月はその変化に戸惑っていた。確かに自分を守ってくれる存在がいることは心強い。だがその相手が司だと言うことに複雑な心境を抱いていた。何故今頃になって自分の為に動いたのか、司が何を考えているのか、さっぱり分からずにいた。(でも、私も変わらないと……)周囲の環境が変化したことにより、沙月も以前から考えていた計画を実行することにしたのだった――****――よく晴れた土曜日の朝。沙月は真琴の部屋の玄関に立っていた。その向かい側には真琴もいる。「真琴、今まで本当にありがとう」ショルダーバッグを下げた沙月が笑顔で告げる。「沙月……本当に引越ししちゃうの? 私としてはずっとここで暮らしてもらっても良かったのに。何しろ沙月の手料理は最高に美味しかったもの」「アハハハ。今さら何を言ってるの? もうマンションの賃貸契約を結んでいるのに。手料理が食べたければ、いつでも作りに行ってあげる。もちろん、私の部屋に来てもらってもいいし」笑う沙月の顔は晴れやかだった。「うん……分かった。でもごめんね。引っ越し手伝えなくて……」「やだ、謝らないで。だって真琴はこれからオンライン業務があるじゃない。荷物は全部トラックで運んであるし、元々荷物だって殆ど無いから1人で大丈夫よ」「分かった……元気でね」「うん、真琴も」2人は玄関前で別れの抱擁をし、沙月は真琴に見送られ
沙月は驚いて司を見つめる。(司……! まさかつけてきたの!?)司は沙月の横を素通りすると、女性局員たちに近づいた。「彼女は機材室に閉じ込められていた。しかも中からは開けられないように外から鍵がかけられていた。そして、そのことについて彼女は一言も触れていないのに……君たちは機材室に鍵がかけられていたことを知っていた。一体どういうことだ!?」司の責める声が報道部に響き渡り、しんとフロアが静まり返る。相手は天野グループの若き社長。しかも局のスポンサーだ。これにはさすがのデスクも口を出せない。女性社員たちは青ざめたまま、小刻みに震えている。誰も司の視線を正面から受け止められない。「彼女はこの局に入ったばかりの新人だ。それなのによってたかって嫌がらせをしているとは……呆れたものだ」怒りを抑えた口調で語る司の背中を、沙月は信じられない思いで見つめていた。(司……どうして……?)「とにかく、このことは上に話を通しておく。もし、また彼女に同じような嫌がらせをした場合……天野グループはスポンサーから降ろさせてもらおう」「!」その言葉に報道部が凍り付き、デスクが慌てて駆け寄って来た。「天野社長! も、申し訳ございません! 彼女達には反省文を書かせ、天野さんには正式に謝罪させます! どうか、スポンサーを降りることだけは……!」いつも威張り散らしているデスクが平謝りに頭を下げているのを、沙月は信じられない思いで見つめていた。「それは今後の君たちの出方次第だ」司の声は冷ややかだが、有無を言わさぬ威圧感がある。そして次に司は沙月に視線を移した。「もう退社時間は過ぎている。そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」「え……?」するとデスクが笑顔を作り、沙月に話しかける。「そ、そうしなさい。顔色が悪いようだし」「……はい……分かりました」沙月は「お先に失礼します」と会釈すると、重苦しい空気の報道部を後にした。背後では、誰もが凍り付いたまま動けずにいた――****――翌日。「……おはようございます」恐る恐る沙月が出社すると、報道部の空気は昨日とはまるで違っていた。澪の手下だった女性社員たちは彼女を見ると、気まずそうに視線を逸らし、誰も直接嫌味を言う者はいなかった。デスクも妙に柔らかい口調で「おはよう。調子はどうだね?」と声をかけてくる。
沙月はふらつきながらマイクケーブルを抱え、報道部へと戻っていった。おぼつかない足取りの沙月。司は黙って後ろを追っていたその時。「天野、こんなところで何してるんだ?」突然背後から肩を叩かれ、司は思わず大きな声を上げた。「うわっ!」振り向くと、あっけにとられた様子の霧島が立っている。「驚いたな……何もそんなに大きな声を上げなくてもいいだろう? 久しぶりだな、天野。でも何で局に来ているんだ?」霧島は人懐こい笑みを浮かべる。「き、霧島……? 驚かせるな。この局は天野グループが出資している。別に俺がいても不思議じゃない」会話しながらも、司の視線はずっと沙月に向けられていた。まるで今にも彼女が自分の視界から消えてしまうのを恐れているかのように。「ごめん、さっきから呼びかけているのに、全く反応が無かったから……でも局にいたのはそういうわけか。俺はてっきり……ん? 天野、さっきからどうしたんだ?」「悪いが、今はお前の相手をしている余裕はない。俺は忙しいんだ」「あ、ああ。呼び止めてすまなかったな」霧島は笑顔で謝る。「いや、もういい。それじゃあ、また」「ああ、またな」司は霧島に背を向けると、再び沙月の後を追った。「……」霧島はその後姿を意味深な瞳で黙って見送った――****「え……?」ケーブルマイクを抱えた沙月が報道部に戻ってくると、女性局員たちの間でざわめきが起きた。「ちょっと……あれ見て」「どうなってんの……?」「鍵を掛けて閉じ込めたんじゃなかったっけ?」女性局員たちがコソコソと囁き合う。「ねぇ、ちゃんと鍵かけたの?」一人が、沙月を閉じ込めた女性に問い詰める。「か、掛けたわよ! だって何度もノブを回して開かないことを確認したもの!」彼女たちは澪がスタジオ入りしているため、司が助けに行ったことを知らない。そこへ沙月が近づいてくる。「ちょ、ちょっと……こっちへ来てるじゃない!」「私たち知らないわよ!」「貴女が対応しなさいよ!」彼女たちは、沙月を閉じ込めた女性スタッフ一人に押し付けようとする。「そ、そんな……!」そこへ沙月がやって来た。「あの~……」「な、何よ! 私は何も知らないわよ! 勝手に鍵がかかったんじゃないの!?」「そ、そうよ! 私たちを責めるのはお門違いよ!」「言いがかりはやめてよね!」他の
青白い顔でぐったりしている沙月を見て、司は恐怖を覚えた。「沙月……! しっかりしろ!」司が何度も呼びかけると、沙月はゆっくりと瞼を震わせ……薄く目を開けた。「司……?」かすれた声で名を呼ぶ。「そうだ、俺だ」返事をする司の声はいつにもなく優しい。「……これは……夢……?」弱々しい声が漏れる。「何を言ってるんだ? これは夢なんかじゃない、どうしてそんな風に思うんだ?」すると沙月は弱々しく笑った。「だって……貴方は今まで一度も私の電話に出てくれたこと無かったじゃない……」「!」司は言葉を失った。沙月に痛いところを突かれて何も言えない。そう、今までの司は敢えて沙月の存在を無視していた。白石家の目論見で自分を罠に嵌めた存在。天野家に寄生する、煩わしい存在だと……。(だが、現実は違った……沙月は俺との結婚を望んでいなかった。それに彼女も罠に嵌められていた。そして白石家から都合の良い存在として利用されてきた哀れな存在だ……)「ごめんなさい……迷惑かけてしまって……」沙月はうつろな瞳で司を見つめる。「……いや、別に……」気の利いた言葉が見つからない司。「皮肉なものね……離婚してから貴方と電話が繋がるなんて……でも、他に連絡できる相手が思い浮かばなくて……」沙月は俯きながら呟いた。その話を司は複雑な思いで聞いていた。孤独の果てに自分を頼ったことが憐れでもあり、同時に嬉しくもあった。「……もう支えてくれなくて大丈夫よ……」沙月に身体を押され、その時になって初めて自分が今まで沙月を抱き寄せたままだったことに気付いた。「大丈夫なのか?」身体を離すと沙月は壁に寄りかかり、コクリと頷いた。「……誰にやられた? 澪か?」沙月は黙って司を見つめるも、やがて首を振った。「違うわ。同じ報道部の女性スタッフよ。マイクケーブルが必要だから、機材室に取りに行ってと言われたの……」「名前は?」「分からないわ……大体、同じ部署の人の名前だって分からないもの」その言葉に司は眉を顰める。「分からないだって? どういうことだ?」「私は誰からも相手にされていないから、名前も分からないってことよ。もう……行かなくちゃ。マイクケーブルを届けないといけないから……」ふらつきながら立ち上がる沙月。「おい、あまり無理しない方が……」「そういうわけにはい
「司! 待って! 行かないで!」澪が必死に腕を伸ばして止めようとしたが、あっという間に司は走り去ってしまった。「司……! どうしてよ……!」澪の声も、伸ばされた手も司を引き留めることは出来なかった。自分の元から去って行く司に、増々沙月に対する憎悪が膨れ上がっていく。遠ざかる司の背中を睨みつけ……澪は震える声で呟いた。「沙月……絶対に許さない。この私から司を奪うなんて……もっともっと、あんたを苦しめてやる……」澪は唇を強く噛み締めた――****苛立ちを抱えたまま踊り場から出てきた澪は、廊下で若手男性スタッフに呼び止められた。「あ! 朝霧さん! 今までどちらへ行かれていたのですか!? 本番まで、もうあまり時間が……」すると澪はスタッフを睨みつけ、ヒステリックに喚いた。「うるさいわね! 一々、あんたにそんなこと言われなくたって分かっているわよ! この私に指図するな! 私を誰だと思っているの!? この局の顔、朝霧澪よ!」「も、申し訳ございません……」青ざめて震えるスタッフ。その様子を周囲で見ていた局員たちも息を呑んで立ちすくむ。数人は顔を見合わせ、ひそひそと囁いた。「……朝霧さん、どうしたんだ?」「何か様子がおかしいな……」その囁きが澪の耳に入る。ギラリと鋭い視線を向けると局員たちは慌てて目を逸らした。「なによ! 見世物じゃないんだからジロジロ見ないでよ!」苛立ち紛れに踵を返すと、澪はヒールを鳴らしながらスタジオへと向かう。その全身からは怒りが滲み出ていた。(私という者がありながら、沙月のところへ行くなんて……! これも全部あの女が悪いのよ……私から司を奪うなんて絶対に許さない! もっともっとお前を追い詰めて、どこまでも苦しめてやる……!)澪の目は憎悪で燃えていた――****――その頃。局の顧問弁護士である霧島は、契約関連の確認のため局に来ていた。そして報道部へ向かう途中……ふと足を止めた。「ん? あれは……?」廊下を走り抜ける司の姿が視界に飛び込んできた。「……天野?」霧島は驚きで目を見張った。(なんで局に来ているんだ? それにしても……あの天野が、あんなに取り乱しているなんて……何かあったのか?)普段冷静沈着な男が、あんな必死な様子を見せるなど想像もしていなかった。霧島は立ち止まり、司の背中を見送っ